山谷労働者と公共図書館  −図書館を考えるために

 
 

文と写真●山口真也
やまぐち・しんや●
本稿を作成するに当たって、台東区と荒川区の図書館関係者をはじめ、さまざまな方々にご協力を頂きました。
この場を借りて、改めてお礼申し上げます。どうも有り難うございました。


石浜図書館、根岸図書館、南千住図書館には、一時期、山谷労働者たちが多く集まった。
そこでは、閲覧室で酒を飲む、酔っぱらって糞尿を垂れ流すなどの迷惑行為が多発し、近隣住民からの苦情が寄せられた。図書館側は閲覧室を廃止するなど様々な対策を行い、その結果、山谷労働者の利用は徐々に減っていった。今では三館とも、近隣住民が快適に利用できる「正常な図書館」になっている。
しかし、山谷地区図書館の課題は、「正常な図書館」になること以外にもあるのではないだろうか。
三館の活動経緯と、大阪釜ヶ崎地区の図書館活動を比較しながら、山谷労働者と公共図書館のあり方を考えてみたい。

はじめに

 「山谷」という名前で呼ばれる地域がある。東京の台東区と荒川区に跨る一・六六平方キロメートルの一画を指し、土木・建設現場での肉体労働に従事する人々が仕事と生活の場所を求めて集まる日雇い労働者の街である[*1]。
 昭和四十年代後半、この山谷地区の中に(または周辺に)相次いで公共図書館が開館した(資料1参照)。台東区立石浜図書館、台東区立根岸図書館、荒川区立南千住図書館の三館である。その後、この三つの図書館は「山谷」という言葉なくしては語れないほどの特異な出来事を経験することになる。しかしながら、これらの図書館の活動が「山谷」という視点から論じられることは、これまで殆どなかった。
 本稿は、山谷地区にある三つの図書館の関係者に対して行った聞き取り調査をもとに、これまでの活動の歴史を記録し、今後の課題について考察しようと試みたものである。
 本稿を眺めて、そして、山谷地区の図書館活動について、一人でも多くの人々に関心を持って頂くことができれば、と筆者は考えている。

山谷労働者の利用形態

 山谷地区には三つの公共図書館がある。資料2からも分かるように、いずれも昭和四十年代後半に開館しており、最新の設備を整えた大規模図書館ではない。これらの図書館を山谷労働者はどのように利用してきたのだろうか? ここではまず、聞き取り調査の結果をもとに、石浜、南千住、根岸の三館のこれまでの活動を振り返ってみよう。

●石浜図書館の場合
 台東区立石浜図書館の事務室の壁には、かつて警報ランプが取り付けられていた。各階のカウンターに備えられた警報機の信号を受信して、どこでトラブルがあったかを即座に知らせるためものである。
 開館当時、石浜図書館に勤務していた元職員は、このシステムが導入された理由として、山谷労働者と思われる悪質な利用者が引き起こす様々なトラブルがあったことを指摘している。例えば、職員が「因縁をつけられる」「カウンター越しに胸ぐらをつかまれる」といった事件は珍しいことではなかったという。
 とはいえ、この時期の利用者全体に占める山谷労働者の割合は未だ小さく、彼らの一部が引き起こす迷惑行為もそれほど深刻な問題であったわけでない。昭和五十二年から五十七年まで石浜図書館で働いていた元職員の一人は、山谷労働者の迷惑行為が問題として表面化するようになったのは、開館から三〜四年ほどが過ぎてからであったように記憶しているという。この職員が推測するところによると、数年が経つと、労働者の間に「図書館は居心地がいいということが知られるようになってきた」のだろう。
 当時を振り返って、ある関係者は山谷地区と石浜図書館との関係を次のように説明してくれた。
 山谷労働者の多くが従事する日雇い労働は体力仕事が多く、たとえ仕事があっても毎日続けてできるようなものではない。いきおい、仕事をしない日の昼間、特にやることがない労働者にとって、出入りが自由な図書館は時間を潰すには絶好の場所になる。そこには、雨風を遮る屋根があり、厳寒や酷暑を凌ぐ冷暖房機もある。定宿を持たない労働者にとってはなおさらであろう。
 かくして、山谷労働者は「朝の開門と同時に大きな荷物を抱えてやって来る」。大半は、閲覧室でぼんやりしているか、熟睡して一日を過ごすのだが、この他にも、仲間同士で「酒を飲む」もの、「酔って騒ぐ」もの、「花札」や「おいちょかぶ」等の「賭博を行う」ものも少なくない。また、泥酔して、館内で「ところ構わず糞尿」を排泄するものも続出した。おかげで館内には「もの凄い匂いが漂い」、とても耐えられない状態が続いた。その匂いの激しさは、職員が仕事を終えて「電車に乗ると変な顔をされ」、「家に帰ると香水を撒かれる」と言えば想像してもらえるだろうか。館内の「異様な匂いが体や洋服にこびり付いてとれない」のである。
 悪質な利用者の行動で、困らされたことはそれだけではない。当時の山谷労働者は全般的に若かったせいもあって「喧嘩っ早いものが多く」、仲間同士でのいざこざが絶えることがなかったのである。また、こうした気性の荒い利用者の中には職員をからかったり、「言葉使いが悪い」「扱いが悪い」などと言って絡んでくるものもいた。時には手が出ることもあり、「よく怪我をした」ものであると関係者の一人は語る。
 さらに困ったことは、これらの労働者の中には、所持金が無く、今夜泊まる場所がないと分かると、故意に騒動を起こして「パトカーを呼べ」と騒ぐものがいるということである。理由は、交番の留置場とはいえ、一泊できる上に、運が良ければ食事が出ることもあり、野宿に比べればましと考えられるからであろう。これと同じ方法で、「仮病を使って救急車を呼ばせる」というものもある。職員としては「まさか利用者を疑うわけにはいかず」、こうした要求があればすぐに救急車を呼んでいたが、救急隊員も事情は分かっていて、館内から「連れ出してはくれる」が、恐らくは「適当なところで降ろしていた」のだろう。ともあれ、パトカーや救急車を呼びつけることは、当時「少なくとも週に二〜三回」の頻度で起こっていた。
 この他にも、「盗難」や「放火」といった事件が館内で起こることも「しょっちゅう」であった。特に「放火」については、「本を燃やす」という事件も少なくなく、館内の床にはしばしば本が灰になって残されていたという。
 来館者が本を燃やす?\―昭和五十年代前半の石浜図書館の状況は、このことが全てを物語っていると言うことができるだろう。

●南千住図書館の場合
 次に、荒川区立南千住図書館のこれまでの活動を振り返ってみよう。
 荒川区の図書館の歴史を綴った『創立五○周年小史 図書館の歩み』(一九八九)を開いてみると、南千住図書館は、開館する以前から「山谷」に深く関わっていたことが分かる。昭和四十七年の開館に至る経緯を記した部分を引用してみよう。
 簡易旅館の建設に地元の住民が反対し、跡地利用について区側も模索した。昭和四十四年三月五日に『南千住一丁目一三番に簡易宿泊所の建設反対に関する請願』が提出され三月二十四日に『採択』されている。地元の住民、特に六瑞小PTAのお母さん方の連日にわたる猛反対もあり、土地を区が買い上げた。(中略)幼稚園と図書館建設の要請が強かった。引き続く地元の住民運動を受け止めて昭和四十五年十月に図書館建設が急きょ決定される。翌五月二十一日には前述のように『仮称南千住第二幼稚園及び南千住図書館新築工事請負契約』が区議会によって可決された。
 即ち、簡易宿泊所建設に反対する近隣住民の要求を受けて、区が土地を買い、その跡地に建設されたものが南千住図書館だったのである。ちなみに「昭和四十四年第一回定例会」の会議録には、簡易宿泊所が南千住地域に「拡大し、かつそこに集中化の傾向があることは(中略)清純な教育環境を阻害する大きな要因となっており、まことに憂慮すべき事態」として「地域住民の強い反対」があったことが記されている。
 地域住民側の「山谷労働者=清純な教育環境の阻害要因」という発想の是非はともかくとして、以上の経緯を経て南千住図書館は建設されることになった。この南千住図書館を山谷労働者はどのように利用してきたのだろうか?
 ある関係者は、山谷労働者の中で資料の利用を目的に来館するものは「ほんの一握りに過ぎなかった」ように記憶していると語る。彼らの大半は、閲覧室で眠り、食事をし、時にはトイレで体を洗い、髭を剃り、洗濯をして帰って行く。住所の確認さえできれば簡易宿泊所の宿泊者であっても貸出券を作成する用意はあったが、労働者の多くは貸出どころか、資料を手に取るポーズをすることさえ「億劫に見えた」。
 これら山谷労働者の中には酒気帯びでの入館者が非常に多い。恐らくは、彼らを取り巻く過酷な生活環境が、「酒を飲まずにはいられなくさせている」のだろう。飲酒が彼らの心の慰めになっていることを考えれば、その「行為自体が悪いとは言えない」が、酩酊すればどうしてもマナーが乱れ、「他の利用者にからんだり」「児童室に乱入」するものも現れてくる。酔いが廻って前後不覚になった労働者が「糞尿を垂れ流して床で眠っている」こともたびたびあり、閲覧室の床が「汚物まみれ」になればやはり考えものであろう。
 「雨が降ると利用者が増える」ということもまた山谷労働者の図書館利用の特徴である。彼らの目的は雨があがるまでの時間を閲覧室で過ごすことにあり、満席の場合は「床に寝ころんでゴロゴロ」している。全体的に見て図書館を利用する労働者には大人しいものが多かったように思うが、閲覧室が足の踏み場もないほど混雑している場合にはさすがに「ストレスを感じる」らしく、あちらこちらで労働者同士の喧嘩が始まることになる。時に、そのストレスの矛先は職員に向かって来ることもあった。
 こうした状況を振り返ってある職員は、山谷労働者は当時の南千住図書館にとって「非常に大きな存在」であったと語っている。労働者の利用は一日に「三〇〇人から四〇〇人」を数えることもあり、教育環境を整備するための前提として彼らの排除を望んだ「地域住民」の期待は裏切られる結果となったのである。

●根岸図書館の場合
 厳密に言えば、台東区立根岸図書館は山谷地区の中に位置する図書館ではない(一二五頁、資料1参照)。その建物は人や車の往来が激しい昭和通りと明治通りがぶつかる交差点に面しており、こうした周囲の町並みは、一瞬「山谷」という街の存在を忘れさせるほどに賑やかである。
 とはいえ、この根岸図書館の歴史もまた山谷労働者の存在と全く無関係であったわけではない。石浜図書館と南千住図書館での山谷労働者の利用がピークに達していた昭和五十年代には、この二館に入りきれない労働者が根岸図書館に流れ出していたという関係者の話もあり、「閲覧席での居眠り」「トイレでの洗濯」「ロッカーの私物化」といった施設利用面での問題から、仲間同士で「酒を飲む」「喧嘩する」「職員にからむ」等の迷惑行為の問題に至るまで、山谷地区特有の様々な問題はこの根岸図書館でもまた語り継がれているのである。
 過去の状況を伝え聞くある職員の話によると、昭和五十年代半ばになると「フロアが山谷の労務者で溢れる」という状態が連日のように続くことになったという。かくして根岸図書館では、来館者に整理券を配布し、入館制限を行わざるを得ない事態に追い込まれてしまう。その後しばらくの間、この整理券制度は存続し、根岸図書館は「本来の利用者が入館できない」という深刻な問題を抱えることになる。

近隣住民の反応

 「居眠り」「異臭」「盗難」「放火」「喧嘩」「酒盛り」「賭博」?b?b 各館で見られたこうした迷惑行為に対して、一般に図書館情報学に登場する利用者たちはどのような反応を示したのだろうか?
 各館の関係者の話を総合すると、近隣住民からは、やはり「厳しい批判が寄せられていた」という。
 石浜図書館では、昭和五十五年頃から特に女性からの苦情が増え始め、職員が駐在していない「五階を利用するのが恐い」という声が多く寄せられることになった。先述のように、山谷労働者の中には酒気帯びで入館するか、もしくは館内で飲酒するものが多く、「酔った勢いで(他の利用者に)絡んでくる」という事件がしばしば発生していたのである。加えて、三、四、五階の書架に向かうにはエレベーターを利用しなければならず、女性から「山谷の人たちと一緒にエレベーターに閉じ込められる」ことの「不安感が訴えられる」こともあったという。また、児童の利用に関しては、児童から直接ではなく、「安心して子供を送り出せない図書館である」という母親たちからの指摘も多く含まれていた。ある職員は、近くの小学校では「石浜図書館には行かないようにという指導もあった」と語っている。
 南千住図書館や根岸図書館に関しても例外ではない。根岸図書館については、当時の『広聴一年』(昭和五十六年度版、九二頁)の中に、「雨の日に根岸図書館へ行ったところ、山谷の労務者が臭くて困った。どうにかならないか」という投書が紹介されており、このことからも、当時の近隣住民の図書館行政に対する不満の大きさが伺えるだろう。ちなみに、その回答としては、「今年に入ってから、山谷の労務者の来館が増えている。公共施設ということから利用者を差別することは出来ないが、他の利用者が迷惑を被っていることも事実なので、現在検討段階ということでご了承願いたい」と記されている。ある関係者の言葉を借りれば、当時の根岸図書館は、近隣住民にとって「臭い、汚い、恐いの三Kの図書館」だったのである。

各館の対策

 勿論、以上のような状況に対して、各館の職員はただ手をこまねいて見ていたわけではない。山谷労働者の排除要求を安易に受け入れることは「利用者を差別しない」という理念を冒すものであり、こうした事態は避けなければならなかった。かくして、各館では様々な対策が採られることになる。
 三館の中で山谷の中心地に最も近く、労働者の利用も多かったと言われている石浜図書館では、昭和五十五、五十六年にかけて、悪質な迷惑行為が量的にも質的にも悪化の一途を辿って行った。その酷さは、事情を知らずに来館した利用者が、館内の光景(酒盛り、賭博など)を見るやいなや、エレベータから降りずに逃げ帰っていくほどであったという。結果、近隣住民の利用は「一週間に七〇人から八〇人を数える程度」にまで減少し、司書の一日の仕事は、マナーの悪い労働者に注意をし、近隣住民の苦情を聞くだけで終わってしまうことになる。ある職員は当時を振り返って、司書の本来の仕事ができないということは「とにかく寂しかった」と語っている[*] 。
 こうした状況の中で、石浜図書館が選んだ対策は「閲覧席の廃止」であった。勿論、利用者が館内で資料をゆっくりと眺める為には閲覧席は必要なスペースであろう。しかしながら、当時の石浜図書館では、その閲覧席が明らかに施設滞在目的の利用者の呼び水になっており、一方で本来の利用者の足を図書館から遠ざけていた。そして何よりも、図書館を利用したいと考えている多くの近隣住民が閲覧席の廃止を望み、投書や苦情を寄せていたという現実もあった。さらに言えば、こうした図書館行政への不満が議会へと提出され、「区の三役と教育委員長との話し合い」で閲覧席廃止の方針が打ち出されたという事情も無視することはできなかった。かくして、昭和五十六年十一月、以上のような様々な要求を受けて石浜図書館は閲覧席を廃止し、貸出を中心とした体制へと移行することになる。
 しかしながら、こうした石浜図書館の方針が最善のものであったのかどうかということについては、現在に至っても様々な議論があるという。荒川区の図書館職員の中には「一館単位で山谷労働者を閉め出しても問題の根本的な解決にはならない」と批判するものも少なくなく、また、石浜図書館内部でも、閲覧席がないという状態はやはり図書館として「正常な姿ではない」と指摘する声もある。また、閲覧席廃止という決断は、山谷労働者や労働者を支援する団体からも激しく批判されており、一九八一年十一月十七日の『東京新聞』には、「許せぬ締め出し 日雇い労働者らが抗議」という見出しの下で閲覧席廃止への不満が報道されている。さらに、一連の動きを「東京都の(山谷労働者の)分散化政策」の「文化面」での「反映」であると考える意見もあった[*]。
 こうした事情もあってか、南千住図書館と根岸図書館では、迷惑行為者への対策として閲覧席廃止という対策が採られることはなかった。これに代わって二つの図書館が採った対策は、「研究目的」「女性のみ」といった利用制限付きのコーナーを開設することであった。実質的に山谷労働者が立ち入れないスペースを作ることによって、近隣住民も館内で資料を閲覧できる環境を整備する方法が採られたのである。また、そうした施設面での政策の一方で、悪質な迷惑行為者や本を手に取ろうともしない労働者への徹底的な利用指導も行われるようになった。そのため、南千住図書館では男性中心の職員体制になり[*]、根岸図書館では、指導の裏付けとして利用規則が作られている[*]。この他、臭いの問題については空気清浄機が設置され、居心地の良い閲覧用のソファについてはパイプ椅子への取り替えが行われたという(根岸)。こうした状況について、ある職員は次のように言う。「台東も荒川も、山谷の問題の為に改装や備品の購入で膨大な税金を使っているんですよ」。

各館の現状

 では、以上のような対策の結果、山谷労働者と三つの図書館の現在の関係はどのようなものになっているのだろうか?
 今日、三つの図書館のうち、閲覧席を持つ図書館は根岸図書館一館だけになっている。先述のように、石浜図書館は貸出館として活動を続けており、南千住図書館では、平成十年に迫った新館移転の準備作業のスペースを確保する為に閲覧席が閉鎖されているのである(平成九年一月〜現在)。
 もともと、山谷労働者の中には貸出利用者は殆どいないため、貸出館になった二館での労働者の姿は殆ど見られない。唯一、閲覧席を維持している根岸図書館でも、積極的な利用指導が行われた結果、休息だけを目的とする利用者や迷惑行為者の来館は「激減してきている」とある職員は語っている。現在も山谷労働者の利用は見られるが、大半は読書を目的とする来館者であり、もはや「特別な存在ではない」。根岸図書館の変化
は近隣住民にも評価されており、このことは近年の貸出冊数の増加にもはっきりと見ることができる(資料3参照)。根岸図書館の近年の貸出冊数は、三倍の規模を持つ台東区立図書館の数に迫っており、かつて「恐い、臭い、汚い」と倦厭されていた姿はそこにはもうないのである。
 こうした現状について関係者の多くは「ようやく正常な図書館になりました」と語っている。そして、山谷労働者と図書館との濃密な関係は既に過去のものになろうとしている。

大阪釜ヶ崎地区の図書館活動

 次に、山谷地区の図書館活動の今後の方向性について考えてみよう。現在、山谷労働者と図書館の関係は急速に希薄化しつつある。こうした現状は果たして望ましいものであると言えるのだろうか? 
 山谷地区の図書館活動を客観的に見るために、ここでは山谷地区と同じく国内有数の簡易宿泊所街を形成している釜ヶ崎地区の図書館活動に目を転じてみたい。
 釜ヶ崎地区?b?b行政名称では「あいりん地区」と呼ばれるこの地域は大阪市西成区の一画に位置し、面積、○・六二平方キロメートル[*]、簡易宿泊所の数、一六二軒、宿泊する日雇い労働者の数は約二万一〇〇〇人と言われている。山谷地区のおよそ三・五倍の人口である。この他に、地区内の路上や公園で野宿する労働者も一〇〇〇人程確認されている[*] 。
 釜ヶ崎地区は、簡易宿泊所が民家や商店街の中に点在する山谷とは異なって、近隣住民の生活圏との境界線がはっきりとしている。このため、文化施設と呼べるようなものは殆ど存在しない。ただし図書館はある。「新今宮文庫」と呼ばれるものであり、労働者のための福祉施設「自彊館三徳寮」に併設する形で平成二年一月に開館している[写真参照]。
 関係者の話によると、この新今宮文庫は、福祉施設の開設に当たって、労働者を支援する教育関係の団体が「労働者に役立つような施設も併設して欲しい」と呼びかけ、それに応える形で大阪市の教育委員会が予算を出して設けられたものであるという。複合施設という形態をとるが、入口は別に作られており、釜ヶ崎労働者以外の近隣住民も自由に出入りできる[*]。従って、この新今宮文庫は「公費負担」「無料公開」の原則を満たした公共図書館であると考えることができるだろう。
 新今宮文庫の活動に詳しい関係者の話を総合すると、その利用状況はかなり盛況であるという。「毎朝、開門の前から一〇〇人近くの労働者が並んでいる」ことも珍しくなく、平均利用者数は一日「一三〇人から一五〇人」を数えている。利用形態については、必ずしも「読書だけを目的で訪れる人ばかりではない」が、「意外と本を読む人も多い」と語る関係者も多い。一〇〇席ある閲覧席は常に満員であり、小説と実用書を中心に構成された約五〇〇〇冊の蔵書のなかで人気の高いものは、「時代小説、推理小説、歴史小説、文学小説」の順に続いている[*]。勿論、これらの資料は貸出も可能であり、一人二冊二週間まで借りることができる。記録によると、貸出冊数は一ヶ月に約六〇〇冊から九〇〇冊ほどあるという。
 ただしここで注意しておかなければならないことは、この新今宮文庫には「司書がいない」ということである。管理は市の教育委員会から三徳寮に委託されており、常に館内にいるのは、同施設に住むアルバイト職員一名に過ぎない。当然、この職員にレファレンスなどの専門的なサービスを期待することは難しく、事実、このアルバイト職員が語るところでは、「貸出、ラベル貼り、配架、簡単な清掃」といった作業がその仕事の全てであるという。さらに関係者に聞いてみると、市立図書館がこの文庫の活動に関わるのは、選書作業だけであり、「司書が直接この文庫を訪れることはない」という言葉も返ってきた。即ち、この新今宮文庫は「図書館ネットワークには含まれていない」のである。施設と予算はあっても、万全の図書館サービスが行われているかといえば、必ずしもそうではない状況もまた見えてくるだろう。

今後の課題

 最後に、釜ヶ崎地区との比較から見えてくる山谷地区の図書館活動の今後の課題について考えてみよう。
 先述のように、釜ヶ崎労働者への図書館サービスは、福祉施設に併設された新今宮文庫において実施されている。司書の不在という問題点は見られたが、図書館の活動が労働者への総合的な政策の中に明確に位置づけられていることは注目すべきことなのではないだろうか? 
 勿論、山谷地区の中にも釜ヶ崎地区と同様に日雇い労働者のための福祉施設(城北福祉センター)はあり、地下の「娯楽室」には新聞や図書を読むスペースが設けられている。しかしながら、娯楽室を管理している職員の方に案内して頂いて見学したところ、このスペースは「読書コーナー」と呼ばれる程度のものであり、蔵書は約五〇〇冊、座席は一六席しかない。また、コーナーの間には仕切りがないため、読書コーナーのすぐ隣にあるテレビコーナーの音声は筒抜けである。蔵書については、石浜図書館からの廃棄図書を譲り受けてくるか、寄贈に頼っており、予算はついていない。さらに言えば、娯楽室を管理する職員の中に司書はおらず、三つの図書館の職員がこのコーナーの運営に関わることもない。こうした現状を考えるならば、独立したスペースを持ち、社会教育課からの予算があり、市立図書館の司書が選書作業に関わっている釜ヶ崎地区の図書館行政とは大きな違いがあると言えるだろう。
       *
 先述のように、山谷地区の三つの図書館では、これまで様々な形で非本来的利用者への対策が行われてきた。近隣住民の要求の中には山谷労働者への差別意識も見え隠れしており、これらの苦情と図書館の理念との板挟みの中で費やされた各館の労力は相当なものであったと言えるだろう。その結果、今日の三つの図書館と山谷労働者との関係はかなり希薄なものになってきている。そして、こうした変化に対して、関係者の多くは、近隣住民が快適に利用できる「正常な図書館」になったと喜んでいる。しかし、「正常な図書館」になることだけが山谷地区の図書館の課題だったのだろうか。
 確かに、山谷労働者の多くは、図書館とは無関係の目的を持つ利用者であった。しかし、そうではあっても、労働者と図書館はかつて一度は接点を持ったのである。図書館員は、山谷労働者が図書館の本来の機能を理解しないまま離れて行くのをただ喜んで見ているだけでよいのだろうか。筆者は、図書館が山谷労働者に対してできること、やらなければならないことはまだまだあるはずだと考えている。その一つの事例として、本稿では、労働者への総合的な政策の中に位置づけられた釜ヶ崎地区での図書館活動を紹介した。問題点はあるが、労働者に対する図書館活動の一つのあり方を示すものとして学ぶべき点もまた多いのではないだろうか。
 本当の意味での山谷労働者に対する図書館サービスが議論されることを期待して、本稿はひとまず筆を置きたい。

 

[*1]  現在、山谷地区には約一九〇軒の簡易宿泊所があり、約六〇〇〇人の日雇い労働者が生活している(見学者用資料『東京都城北福祉センター事業案内(平成 年度版)』一〜二頁)。他に「野宿者七〇〇人」という報告もある(青木英男「野宿労働者と現代都市│野宿者の形成と概念をめぐって│」『都市と都市化の社会学』岩波講座現代社会学、岩波書店・一九九五年、一三三頁 )。

[*2] それほどの思い入れもなく配置になった職員の中には「異動を希望するものも少なくなかった」という。
[*3] 今川勲著『現代棄民考│「山谷」はいかにして形成されたか』(田畑書店・一九八九年、三四三頁)。
[*4] 荒川区内の他の分館では男女五対五の割合。南千住図書館では八対二の割合になった。
[*5]  「酒気を帯びて入館しないこと」「館内で飲酒、飲食をしないこと」「仮眠したり、床に座らないこと」「子供室の利用の方は、原則として、子供および子供の同伴者に限ります」など。
[*6] 財団法人西成労働センター『西成地区日雇い労働者の就労と福祉のために1995年(平成7)年度事業の報告』(一九九六年刊)。
[*7] 全労連全国一般大阪府本部・西成労働福祉センター『自立支援の新しい就労をめざして―効力ある高齢者清掃事業への提言―』(一九九六年刊)。
[*8] ただし、釜ヶ崎地区の閉鎖性を反映してか、労働者以外の利用は殆ど見られないという。
[*9] 西成労働福祉センターの職員が調査し、『センターだより』(一九九六年十一月十五日)にて結果を発表している。また、「今は目が悪くなって、本を読むのがつらい。本の字を大きくして欲しいと思うわ」という労働者の声も紹介されている。
 

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