オリジナル曲のほとんどを生まれ故郷沖縄県宮古島の方言で、レゲエやブルース、フォルクローレなど幅広いジャンルの音楽にのせて歌う、異色のアーティスト下地勇さん。
 下地さんは、本島でサラリーマンをしながら、28歳のとき、宮古民謡保存会に入会したのをきっかけに、仕事の傍ら音楽活動を始めるようになる。
 宮古方言でオリジナル曲を作り始めたのは30歳のとき。父親の還暦祝いに録音テープを贈ったところ、父母の友人をはじめ、島を離れて住む宮古出身者の間で話題になり、あっという間に口コミで広まった。
 2002年8月にシングルCD「我達が生まり島」をリリース、3ヶ月で7,000枚のセールスを記録、同年12月に発売したアルバム「天〜tin〜」は14,000枚のセールを記録し、その噂は海を越えて他府県にまで達した。
 現在、会社を休職して、沖縄からの発信にこだわり、本格的な音楽活動を展開している。また、今年1月からは沖縄タイムス「唐獅子」の執筆も行っている。
 多忙な下地さんへ大学進学そして学生生活について聞いた。
■進学までのいきさつをお聞かせ下さい。
目的なく東京へ
 宮古高校卒業後、東京の語学専門学校へ進みました。当時は特に目的をもって進学したのではなく、英語が好きで、他の教科よりも得意だったという理由でした。結局、1年半在籍して、留学を目前にやめてしまい、東京で5年半仕事をしました。仕事といっても、高卒の私の仕事は肉体労働がほとんどでした。最終的には現場をまかせられるようになり、責任ある仕事をしていましたが、社会に参加している、役立っているということが全く感じられなくて、自暴自棄に陥っていました。
相互扶助の精神と東京生活
 宮古では、相互扶助の精神が強く、高校まで地域の畑仕事や行事等に当然のようにボランティアで参加していました。自分が地域に役立っていると感じられる状況にあったのです。
 しかし、東京では、そういう状況にはありませんでした。そのため逆に、自己に向き合い、沖縄、宮古をみつめる機会になりました。基地問題、経済、沖縄がおかれている状況について答えを求め、本や雑誌等を貪欲に読みつづけ、考え、悩む。空を見上げては、宮古、沖縄を想う、そして自分自身をみつめる日々が続きました。
 ちょうどその時期に、沖縄で米兵による少女暴行事件が起きます。しかし、東京ではそれほど大きな事件としては扱われませんでした。国家と地方、日本のなかの沖縄、宮古という構図が自分の状況と重なり、このままではいられない衝動にかられ、沖縄に帰ろうと決心しました。
■沖縄に帰って、すぐ進学したのですか。
現状脱却と大学進学
 いいえ。沖縄に帰って、知人の紹介で中小企業診断事務所に就職しました。この仕事で、中小企業からみえる沖縄の実態を把握することができました。解決する手立てを考え、アドバイスしていく。とてもやりがいのある仕事でした。いろんなセミナーに参加し、知識を増やしていきました。でも、月1回程度のセミナーでは物足りなくなり、進学を考えるようになりました。事務所でお会いした砂川徹夫先生から「社会人特別入試制度」のことを教えてもらい、商学科を受験しました。
勤めながら通学していましたが、4年次には企画実践していける会社MARINE HOUSE SEASIR. LTDへ転職しました。沖縄の海の良さを紹介しながら、環境について考えてもらう仕事です。修学旅行や一般の観光で訪れた人達が何かを感じて帰っていく。充実した毎日でした。
■学生生活はどうでしたか。
 入学前は、10代の若い子達と席を並べて学ぶことに抵抗がありましたが、予想に反して、彼らと学ぶことは楽しく、年齢差を越えた友情が芽生え、私の学生生活を豊かにしてくれました。現在、私のホームページ作成を手がけてくれている亀谷幸之助さん、マネージャーを引き受けてくれている大城貴弘さんも、学生時代の仲間です。
■学生と仕事との両立はいかがでしたか。
かけがえのない財産を築く
 時間的にも、経済的にも、余裕のない生活を送っていましたが、それ以上に得るものは大きかったです。
 社会人の場合は、実社会の経験が科目の選択に反映され、大学で学んだことは、具体的な仕事を通して、フィードバックすることができます。私にとっての学生生活はいいこと尽くしでした。“社会人学生”というひとつの決断が、おもいもよらなかった道を切り開き、かけがえのない財産を築くことができたと思っています。 私の会社は平日8時頃まで仕事をしていましたが、社長や同僚の理解と協力によって、4年間で卒業することができました。とても感謝しています。
■印象に残っている講義はありますか。
 哲学は好きな科目でした。担当の武田一博先生のご好意に甘えて、講義終了後も先生の研究室で勉強会をしていました。気が付くといつも閉門11時になっていて慌てて帰る状況でした。卒業後も月1回の割合で勉強会を実施していましたが、現在中断しているので、再開したいと思っています。
■在学生へのメッセージ
 目的や目標をもって入学している学生が少ない印象を受けています。仮に目的や目標をもっていたとしてもそれは資格取得や公務員、就職するためであったりします。それよりも、大学で学ぶことは、就職の為だけじゃないということに気づいてくれたらいいと思いますね。
 大学側のカリキュラムの編成や内容についても、もう少し工夫が必要だと感じました。世の中の構造に組み込まれる人材ではなく、疑問を持って改革しようとする人材、自分自身でつくりあげようという気構えのある人材を育てるためのカリキュラム(自営業ゼミや企画力養成講座など)ができたらもっといいと思います。
プロフィール

1988年3月 宮古高校卒業
1988年4月 アカデミー・オブ・ビジネス専門学校入学
1989年9月 同専門学校中退
*その後5年半程、東京で仕事をする。
1996年2月 シー・エス・ディ・コンサルタンツ(中小企業診断事務所)に就職
1997年4月 沖縄国際大学商経学部第二部商学科入学
1999年6月 宮古民謡保存会に入会
*仕事、学業の傍ら音楽活動を始めるようになる。
2000年4月 MARINE HOUSE SEASIR. LTDへ転職
2001年3月 沖縄国際大学商経学部第二部商学科卒業
2002年8月 シングルCD『我達が生まり島』をリリース
   12月 アルバム「天〜Tin〜」を発売
*現在、県内外で音楽活動を精力的に展開
   

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